マルホンの歴史
北海道・歌棄の地で130年、
4代続く老舗漁家・マルホン小西漁業。
北海道に渡り移った激動の幕末期から、ニシンで栄えた時代を経て、
現在までの歩みを振り返ります。
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1868年〜
江戸末期〜明治初期
戦禍を乗り越え、
酒田から蝦夷地へ小西家の祖先は、現在の山形県に位置する庄内藩の港町、酒田の御用商家である岡田家でした。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争において、庄内藩は会津藩・長岡藩と並び、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍(官軍)に抵抗しました。岡田家の先祖は最後まで戦い続け、その後、蝦夷地(現・北海道)へ移住したと言われています。移住後は函館で新たな生活を始めましたが、明治2年(1869年)まで続いた箱館戦争によって、すべての財産を失ってしまいました。
その後、上磯(現・北斗市周辺)に移り、再建を図ります。 -
1889年〜
明治中期
歌棄でニシン漁場を始める
上磯でしばらく過ごした後、岡田兄弟の弟は小西家の養子となりました。
兄・岡田金作、弟・小西治右衛門の兄弟は連れ立って寿都郡の歌棄(うたすつ)へと移り、当時盛んであったニシン漁場を開きました。 これが現在のマルホン小西漁業の直接の起源であり、代表・小西正之から4代前の世代にあたります。
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1920年〜
明治〜大正期
ニシンで栄えた
五十年歌棄村に根を下ろした岡田家は「マルホン(丸本)」の屋号を掲げ、ニシン漁で大きな繁栄を遂げました。当時、地元では「漁業家番附(富豪番付)」と呼ばれる文書が発行されており、地元の漁場を持った漁家の名が列記されていましたが、マルホンもその中に名を連ねていたそうです。
この頃、マルホン本家の邸宅が建てられ、その向かいには、漁師たちが生活する番屋としてレンガ倉庫も建設されました。 当時のレンガ倉庫と、邸宅内に置かれていた金庫の台座となっていたレンガの積み跡は、現在も残されています。
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1930年〜
昭和初期
ニシン漁の終わりと、新しい時代
昭和初期まで大漁が続いたニシンは、徐々にその姿を見せなくなり、昭和20年代にはパッタリと獲れなくなりました。
岡田家の兄の子孫はその後函館へ移住し、弟の子孫である小西家が歌棄に留まり、漁業を代々継いでいくことになりました。
このとき、岡田家の屋号「マルホン」を譲り受け、「マルホン小西」となりました。寿都の海ではホッケがたくさん獲れたため、ニシンほどの高値では売れなかったものの、その後はホッケ漁を主軸に体制を立て直していきました。
昭和40年代後半には、地域の漁業者と共同で寿都地域初となるホタテ養殖を試験的に開始。ホタテの養殖は大成功となり、養殖施設を増やして増産体制を整えました。
昭和48年、地域の漁業者とともに生産組合を立ち上げ、小定置網漁業とホタテ養殖による経営の安定化を図ります。この頃は、生産組合での操業後に自社漁場の操業を行うという体制が続きました。 -
1975年〜
昭和50年〜60年代
マグロ漁と大型
定置網への挑戦昭和50年代に入ると、小定置網によるマグロの漁獲が増加し、マグロを主体とした操業体制へと移行していきます。
さらなるマグロ増産を見据え、寿都地域初となる大型定置網の構想が持ち上がりました。昭和54年に大型免許定置が承認となり、同年6月に初の網入れ。
初年度はマグロ25トン、5,300万円の水揚げを記録しました。
大型定置網の本格操業を見越し、翌年の昭和55年にはホタテ養殖を他の漁業者へ譲渡しましたが、この年からマグロの水揚げが減少し、大時化による網の破損など不運が続きます。昭和58年を最後に大型定置網の操業は終了し、昭和59年以降は小定置網と底建網による現在の操業スタイルへと移行していきました。
昭和60年代からは、尻別川など後志地方でもサケ・マスの孵化事業が広がった影響を受け、サケの漁獲量が増え始めました。しかし、価格の低迷に悩まされる時期が続きます。 -
1989年〜
平成
有限会社マルホン小西漁業を設立
平成元年(1989年)、有限会社マルホン小西漁業を設立し、小西正之が社長に就任。 当時は役員3名だけの小さな会社でした。平成3年をピークにサケの水揚げは減少に転じ、ピーク時のオスサケの価格は1kgあたり5円まで低下しました。
平成6年(1994年)には、寿都町役場職員と有志の漁師たちが協力し、牡蠣の養殖を開始。 試行錯誤を重ねること3年、身の入った牡蠣ができるまでに月日を要しましたが、その美味しさと品質が徐々に認められ、平成10年(1998年)には「寿カキ(コトブキカキ)」という名前がつけられました。
平成9年頃からはホッケの水揚げが増え始めます。 当時は6t程度の船で操業していましたが、ホッケは1回の出漁で数十トン単位の水揚げとなるため、小さい船では非効率な操業が続きました。 1日に5回の出漁・水揚げを繰り返す日々の中、時化模様の帰港中にエンジンルームへの浸水が発覚するという修羅場も経験。この出来事を機に、船の大型化を進める決意を固めました。
平成14年(2002年)、これまでの操業船の2倍の容量を持つ大型漁船、正栄丸(13t)を新造。平成16年からはサケの水揚げも増え始め、サケとホッケの漁獲で水揚げを着実に伸ばしていきました。 平成20年(2008年)には、大型化と人員増強の効果により、ホッケの水揚げ高は平成14年以前の5倍に達しました。
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2008年〜
平成後期〜現在
船上活〆の導入
と、付加価値の
高い漁業へこの頃からサクラマスの水揚げも増えていきました。当初は水揚げ後に鱗が剥がれて商品価値が下がるのを防ぐため、頭を棒で叩いて動きを止めてから出荷していました。
しかしこの方法では、叩いた衝撃で背身の一部がうっ血し、食用に使えない状態になる個体が現れることが判明。鱗が剥がれず、身の状態も良い処理方法を模索した結果、「船上活〆」が導入されることになります。船上活〆を始めた当初は、エラを切る行為が「魚に傷をつけている」と評価され、市場ではなかなか受け入れられませんでした。それでも、価値を認めてくれた一部の仲買人や料理人とともに、活〆鮮魚の市場を粘り強く開拓していきます。ホッケの水揚げが減少傾向となる中、限られた資源を有効活用し良い状態で消費者のもとへ届けるため、サクラマス以外の魚へも船上活〆の取り組みが広がっていきました。
平成24年(2012年)には、より安全性の高い漁業を目指し、丸本丸(14t)を新造。
2隻体制による水揚げをスタートしました。 継続して船上活〆に取り組む中で、出荷した魚が中央市場の関係者の目に留まり、中央市場への出荷も始まりました。 発送業務の拡大とともに人員も増やし、従業員数は12名へと成長しました。令和3年(2021年)には正栄丸(16t)を新造。水揚げ量の増加に伴い従業員も拡大を続け、2026年現在は25名が漁業や水産加工に従事しています。
従来の定置網漁に加え、牡蠣・ホタテの養殖事業や加工品製造など事業の幅を広げながら、魚介類の付加価値を高める取り組みにも力を入れています。
2024年(令和6年)には、サクラマス「桜寿」、ホタテ「扇寿」の2つを商標登録しました。
3D冷凍など最新の技術も取り入れ、鮮度の高い魚介類を寿都から全国各地へ届けています。
マルホンが目指す未来
これからも、
そのままの美味しさを
海は今、かつてないスピードで
変化しています。
気候変動や、潮流の変化。
毎日海に向き合う私たちは、
誰よりも肌で感じています。
今までたくさん獲れていた魚が、
ある日ぱったりと姿を見せなくなり、
見たこともない魚が網にかかる。
そんなことも珍しくなくなりました。
歌棄の地で130年。
私たちは幾度となく困難に直面して
きましたが、変化を強みに変え、
常に活路を切り拓いてきました。
AIやデジタル技術がどれほど進化しても、
「美味しい魚が食べたい」という人の
気持ちがある以上、
漁業という仕事は不可欠です。
積み重ねてきた技術をさらに磨き、限られた
海の恵みを最大限に活かし、
寿都の美味しさ
をそのまま届けること。
そして、
若い世代が希望と誇りを持ち、
働ける場所をつくること。
それが私たちが目指す
未来であり、
海との約束です。
全国各地の販売店・飲食店様より
仕入れのご相談も承っております。
北海道寿都町の新鮮な魚介類を
産地直送でお届けします。